準備期間 (2)
ネルソン・マンデラの27年間の獄中生活に及ばないが、映画監督のアン・リーさんは、ブレーク前に、6年間の専業主夫をやっていたことはご存じでしょうか。
映画監督になれず、専業主夫に
リーさんは、台湾出身で、大学時代から渡米し、学部と大学院では映画監督になるための勉強をしていた。学生としては良い評価をもらっているようだったリーさんは、卒業後なかなか仕事が見つからないという。
当時既に学部時代から付き合っていた同じく台湾からの留学生と結婚したリーさんは、仕方なく、奥さんの給料で生活し、毎日食事を作ったり、洗濯したりして、子供ができた後、子育ても担当していた。そんなリーさんは、それでも映画監督になる夢を諦めず、家事の隙間に大量の映画を鑑賞し、研究していた。時々ハリウッドに飛んで仕事のインタビューなどの就職活動も続けていた。
夢を諦めて、現実に妥協
しかし、何年間も専業主夫の生活をしているうちに、さすがのリーさんも動揺し始めた。理系の研究をしている奥さんの給料はそんな高くはなく、すでに二人の子供ももつ彼らの家庭は経済的にも厳しかった。お宅の旦那さんはどうして働かないのか、と周りからも囁やかされた。夢と現実、どっちを取るのか。家庭への義務を担うために、自分の我が儘な夢を捨てる人はたくさんいるのではないかと、色々と悩んだ末、リーさんは、映画監督になる夢を諦めることにした。そんな彼は、当時の時流に乗ってコンピュータのプログラマになろうとして、プログラミングの勉強を密かに始めた。
奥さんから一喝を
幸い、リーさんには素晴らしい奥さんがいた。リーさんの勉強を発覚した奥さんは、リーさんにこう話した。「この世の中には、プログラマがたくさんいる。あなたがプログラマになってもならなくても、この世に何の変わりもたらせない。しかし、あなたがどれほど映画を愛しているのかは、私にはわかる。」と、奥さんは、リーさんがきっと映画界に影響を与えるような人物になると、夢を諦めたリーさんを𠮟って、励ました。
奥さんから自分が映画監督になる夢に絶大なる信頼と確固たる支持を寄せられたリーさんは、一旦諦めた夢を復活させ、再び専業主夫と映画研究の生活に戻った。
転機
やがて、転機が訪れた。
リーさんは、ある日、自分が書いた2作の脚本を台湾の脚本コンペに応募した。なんと、二作のうち、一作は一等賞を受賞し、もう一作は二等賞を受賞した。受賞した二作の映画は、リーさんは自分で監督になって映画化すると、コンペを主宰する映画製作会社に強く要請した。リーさんの能力を見込んで、彼に監督を任せた。
二つの映画は、いずれも台湾で高く評価され、リーさんは一躍台湾の名監督になったばかりか、間もなく、リーさんは念願のハリウッドに巻き返し、何作も名作を作り出して、アカデミー賞の最優秀監督賞を二回も受賞した。
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成功後のリーさんは、家庭主夫の6年間は、当時は不安と挫折の時期だったが、今振り返ってみたら、本当は自分の力を隠し畜えの時期だったと評した。
その時期は、リーさんは、自分で映画を監督することできなかったが、他人が監督した映画を研究することができた。チームを組んで何かを製作することができなかったが、ワープロさえあれば、一人でも脚本を書けた。自分のできることをやっているうち、違うルートで違う場所から自分の才能を開花させる転機が訪れ、その後、成功の連鎖で、リーさんの究極の夢もとんとん拍子で実現できた。 <続く>
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